2016年12月25日

電子版配信記念特別対談 特集「描く短歌」を終えて(第1回) ながや宏高×柳本々々


歌誌『かばん』2016年12月号は電子書籍版がkindleで配信されました。
かばん 2016年12月号 -
かばん 2016年12月号 -
電子版配信を記念して2016年度かばん編集人ながや宏高と12月号の特集「描く短歌」チーフの柳本々々の特別対談をお送りします。

【レイヤーと短歌と拡張現実】

ながや:先日購入した山中千瀬さんの『さよならうどん博士』を読んでいたら、柳本さんに絵と短歌のことでお話してみたいことが見つかりまして、お呼び立てしてしまいました。今日はよろしくお願いします。

柳本:よろしくお願いします。『さよならうどん博士』いいタイトルですね。

ながや:いいタイトルですよね。とてもおもしろかったので、柳本さんと共有しておきたいなと思ったんですよ。以前、BLOG俳句新空間の短詩時評で「絵と短歌」というテーマで柳本さんと対談させていただきましたが、(http://sengohaiku.blogspot.jp/2016/07/tanshi23.html?m=1
『かばん 12月号』掲載の特集「描く短歌」の制作を終えたいま、あの時とはまた別の切り口で「絵と短歌」についてお話しできる気がしています。

柳本:そうですね。今回の特集をさせていただいていろいろ勉強になったことがたくさんありましたね。あの時評の時は企画が始まる前の短歌と絵に対する思いで、今回は、じゃあその企画をやってみてどう思ったのかという〈以後〉の話になる感じですかね。

ながや:はい、ではまず『さよならうどん博士』から3首引きますね。

落ちるように音は飛ぶ想像上のラインをつなぐあかりをともす
さようなら咲かない花火もういやなんだって言えば時雨【ルビ:じう】つめたいよ  
窓際の少女の肥えた指がさす海辺には観覧車もなくて
/山中千瀬『さよならうどん博士』  


ながや:いまそこにみえないものをイメージして風景に重ねていくっていうのが山中さんの短歌の特徴のひとつだなと思いました。目にはみえなくてもイメージとしては語り手にとって確かに何かがみえていて、読者はそのイメージを追体験できる、それがとてもおもしろいなと。 〈想像上のライン〉も〈花火〉も〈観覧車〉もいまそこにみえないとしても、まるでレイヤーを貼り付けるような感じで別次元のイメージを読者に与えてくれます。山中さんの歌そのものが「レイヤー」なのではないか、ということもいえるかもしれません。

柳本:ああ。「レイヤー」って絵の世界のことばですよね。そもそもそういう「レイヤー」っていう言葉が、短歌の読解として使えるんじゃないかというながやさんの発想はすごくおもしろいと思いました。山中さんの短歌が、そういう違った読み方をひっぱりだす可能性をもっているのもおもしろいなって思います。
短歌っていろんな構造の組み立て方がなされるから、読み方だっていろいろな構造の立て方を歌に応じてしてもいいのかもしれないですね。それが今回、絵と短歌という企画をやってみてわかったことかもしれない。

ながや:また、唐崎昭子さんがデザインした『さよならうどん博士の』表紙と表紙裏はレイヤーをとても意識させられます。
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ながや:絵と短歌で、表現方法は違いますが、「レイヤー」というのは山中さんと唐崎さんに共通するところだと思いました。 これらを踏まえたうえで、『かばん12月号』の特集「描く短歌」に唐崎さんが寄稿してくださった作品を見ると、やはりこれも背景が加工された写真で、その上に言葉と絵が重なっています。

でもきみでなくてもよかったということ暮れる川辺でいつか話そう 山中千瀬
※唐崎さんにはこちらの歌を絵にした作品を寄せていだきました。


ながや:この歌は未来の出来事をイメージしているわけなんですが、語り手が今どこにいるのかはわからない、でもどこか、何かしらの風景を今みていてその中にいるはずなんです。そうした風景の上にイメージと言葉(短歌)を重ねていく、だから、今回12月号で唐崎さんに寄稿していただいた絵もこういうレイヤー構造になっているんじゃないのか、と思いました。

柳本:うん、そうですね。今回の唐崎/山中さんの絵と歌がほんと今ながやさんのおっしゃったレイヤーというかテキストと絵が〈重ねられた〉絵なんですよね。
で、レイヤー構造について考えたとき、もしかしたらそもそも短歌ってレイヤー構造と親しいのかなあって思うんですよ。そもそも短歌って短いですよね。だから読み手が文脈や背景を用意するしかないわけです。その意味で、短歌って「レイヤー的読解」がつねに必要とされているわけですよね。今まで私も気づかなかったけれど、でも、無意識でたぶんそういうことをやっているわけですよね。背景を用意して、透かして、読む。透かして背景をみるって行為ですね。今回の唐崎さんの絵はその意味で、短歌の構造そのものをめぐる絵になっているかもしれないですね。とても示唆的だと思います。
光森裕樹さんも今回の評で話されていましたね。光森さんがつくられたフィルムに印字された短歌、フィルムメディアは白い紙の上に置いたりして透明だから背景をいろいろ変えられるって。

ながや:確かに、背景をみているのかもしれませんね。評論や短歌を絵にする行為もまず、それぞれ読み手の中にある背景が否応なくあぶり出されてしまう感じがして、ドキドキします。レイヤーをどこに貼るのか、貼ると何が浮かび上がるのか、背景はどう映るのか、そういう問いを持つことも短歌を読むことなのかなって。

柳本:うん、絵ってそういうのを可視化しますね。山中さんの絵をみて、はじめてそういう構造に気がつくというか。構造の可視化が、絵ですね。無意識になんとなくもっている構造を見えるようにすること。

ながや:光森さんが評のなかでおっしゃっている写真と短歌の透明なカードもそうですね、あの『石垣島 2013』と『Madagascar 2012』(http://www.goranno-sponsor.com/book/ishigaki_madagascar.html)という作品は現実という背景に別の世界を想像させる写真と、短歌を重ねながら楽しむことができるメディアでした。これは評の中でもでてくる言葉ですが〈拡張現実〉ですよね。このカード自体〈拡張現実〉な作品だったんだなって評を読んだことで気づきました。

柳本:拡張現実もどちらかといえば視覚文化の領域のことばですよね。光森さんの歌集の『鈴を産むひばり』って活版印刷の歌集なんですよね。活版印刷だから文字の物質性がでてくる。文字の凸凹した感じの。
だから文字の形式が内容をまず規定するわけです。あ、なにか文学的な空間だなとか、あとなにか文字の置かれた環境を意識せよってことなのかもしれないなとか。
それもひとつの拡張現実ですよね。文字メディアそのものがひとつの拡張現実ですからね。拡張現実ってメディアへの意識そのものかもしれないですね。メディア志向性というか。

ながや:光森さんは活版印刷、電子書籍、カードと、いろんなスタイルを実験されている印象が強いです。その光森さんがいま拡張現実に注目されているのは興味深いですね。

柳本:そういう拡張現実って短歌という情報が少ない文字メディアはとくに親和性が強いような気がします。短歌っていうのは「こう読んでほしい」みたいなのは情報が少ないから読者に伝えられないんだけれど拡張現実のパッケージングをほどこすことで読者に伝えられるようになるわけですよね。

ながや:パッケージングによって伝わりやすくなりますし、そこでまた新しい問いや発見が生まれていくのがおもしろいですよね。

柳本:あの斉藤斎藤さんの『渡辺のわたし』の最初のデザイン、ブックパークの方の装幀がまっしろだったんだけれど、それは、前提なく読め、ってことだと思ったんですよ。それもひとつの拡張現実の用意だと思うんですよね。
真っ白な装丁って、榮猿丸さんの句集『点滅』とか太宰治の『晩年』の初版とかいろいろあるんですけど、〈なんにもないまっさらな空間〉をあえて用意するのもひとつの拡張現実を用意するってことだと思います。短詩って短いからコードというか枠組みを用意したくなるんだけれど、あえてしないという〈白さ〉のような。

ながや:周辺情報が伝えられないからこそより自由な広がりと解釈をもつことができます。そう考えると短歌って相当いろんなことを読者に委ねていますよね、こんなに委ねちゃっていいのかっていうくらい。いろんな作り手読み手がいるから、一概には言えないことだけれど読み方の正解が出せないからこそ、個々人のなかにある想像力が試されていくし、現実は拡張されるんだと思います。
『渡辺のわたし』の装幀にしてもそうですが白くて情報が少ない装幀をみると、何かちょっと落ち着かないというか、まっ白くてなにもない部屋に連れて来られたみたいな感じがします。

柳本:あ、そうですよね。自分で考えなさい、ってことですよね。ある意味。読むための道具は、じぶんで用意しなさい、って。白っていうのは、読むたびに汚れていくっていう象徴的な意味合いもありますからね。読むっていうことは自分でその汚した責任を引き受けるみたいなことですね、大きく言えば。読みの責任というか。

ながや:オノ・ヨーコさんの『天井の絵』っていう作品があるじゃないですか、まっ白な天井にすごく小さな字で書かれた「YES」という言葉を、脚立に登って虫眼鏡でみるっていう作品。
僕も何年か前にレプリカでしたけど展示されているのをみに行ったことがありまして、とても感動したんですけど、なにがすごかったかというと、虫眼鏡を通して拡大された「YES」という言葉をみた瞬間、「YES」よりむしろ天井一面の白、余白がまず強烈に迫ってくるんです。情報の少なさと余白の広さで、否応なく何かを想像せずにいられないし、自分自身を問われてしまう、そしてそれらを一点集中で「YES」が引き受ける。
この感じは、短歌を読む時の感覚に近い気がします。歌集の余白の多さって、想像させる余地をあらかじめ用意してくれているっていうことで、だから柳本さんがいまおっしゃった「文字の置かれた環境を意識せよ」「拡張現実の用意」って本当、その通りだなって。

【浮かび上がる短歌】

柳本:最近、VRのゲームが出てきましたよね。PSVR。で、これから拡張現実がもっともっと日常化していくと思うんですよね。Googleグラスとかもそうですよね。そうすると感覚の基盤そのものが拡張現実に基づいてできあがってくるかもしれないですね。感性の基礎工事が拡張現実によって行われる。
でも80年代初頭に生まれたファミコンやディズニーランドという拡張現実によって感性は実は育ってきたんじゃないかと歴史を見直すこともできるような気がします。

ながや:現実と違うルールで動いている世界に入っていく体験というのは確かにゲームであり、テーマパークですよね。ドラクエも、もう古典というか物語のテンプレートのひとつになっていますし、ディズニーもハリーポッターシリーズもずっと人気だから、もうファンタジーブームって言う必要がないくらいです。常に起こっていることだから「普通」になっていますね。映画でよく見るCGの映像は多くの人が慣れてきたところです。そして人々の感覚が「普通」になった今、VRのゲームが満を持して広がりだしているのだなあって。

柳本:たとえばVRで空間をみると、短歌があちこちに浮かんでいるなんていうのもでてくるかもしれないですね。短歌はバーチャル空間も旅できるくらい短いですからね。

ながや:場所とか物質から短歌が浮かびあがってきたらおもしろいです。セカイカメラとか思い出しますね。たぶん似たようなことは誰しも脳内でやっているんだと思います。

柳本:ああ。歌枕ってでもそもそもそういうことだったし、ある意味で、VRだったのかもしれないですね。徹夜しながら土地を詠み込んでいく柿本人麻呂や歌枕を求めて旅をする芭蕉なんかもそうかもしれないけれど、その土地のなにか聖なる部分にアクセスすると、ふっとことばが浮かんでくるというか。ちょっとポケモンGOみたいですね、それはある意味で。ラプラスが出現したからお台場にいくとか。ハクリューを集めるためだけに世田谷公園にいくとか。

ながや:世界の裏側にアクセスできるみたいなワクワク感ですよね。歌枕も、知らない人にとってはただの風景ですし、アニメの聖地巡礼もそうですけど、知っている人と知らない人の温度差っていうのもおもしろいですよね。幽霊がみえる人とみえない人みたいです。みえる人、わかる人にとっては真実だし、特別な体験であるわけです。

柳本:そのためには実際、旅をするひつようがあるんですよね。言葉とかデータはバーチャルなんだけど、でも身体を現地にアクセスさせてはじめて成立するんですね。

ながや:僕は杉ア恒夫さんの短歌のファンなので、蝉が仰向けで死んでいるのをみると、瞬間的に「ひとかけらの空抱きしめて死んでいる蝉は六本の脚をそろえて」という歌がニコ動のコメントみたいに頭の中に流れてきます。
短歌の読者ってそういう、何かの拍子に瞬間的に思い出せる短歌をいくつももっているのではないでしょうか。パッと浮かんできやすいのも短歌の特徴ですよね。

柳本:今のながやさんのそのニコ動のコメントの例おもしろいですけど、そういうふうに思考や認識のフォーマットって実はその時代時代のメディアが用意しちゃってるのかもしれないですよね。
本能的な部分って実はメディアがフォーマットを用意してるんじゃないの、って思うことけっこうあるんですよ。今年すごく騒がれた不倫だって、会うための約束とかふだんの隠れてのコミュニケーションとかメディアがフォーマットとしてたちあげていく恋愛なわけですね。手紙ならこういう不倫、公衆電話ならこういう不倫、ポケベルならこういう不倫、メールならこういう不倫、LINEならこういう不倫みたいにね。
だから、絵と短歌という企画がおもしろいのは、そういうわたしたちの言葉をつくりあげているメディア環境を考えざるをえなくなる点だと思います。

ながや:ああ、人はいまどんなツールでどんなやり取りしているのかっていうことが、言葉の生成にとても影響を与えますよね。LINEもTwitterもニコニコ動画も2chもそれぞれ場の要請みたいなものが働いて知らず知らずのうちに、みんなで似た文体をつかっているようにみえるのがおもしろいです。もちろん細部は違うけれど、何か似た雰囲気を共有し合っている感じがします。
じつはポケモンGOをはじめてプレイした時、奇妙な開放感があったんです。自分が立っている場所の地図が画面上に映し出されて、そこにフシギダネとヒトカゲとゼニガメがパッパッパッと浮かびあがってきた瞬間、なにかこう、現実の上に新しい世界が重なって広がっていったんです。これも思考や認識の本能的な部分がメディアに用意された事例だといえそうです。そして短歌にもこのような開放感があると思っています。これもまたレイヤー的な話になりましたね。

柳本:あ、そうですね。実は現実って重ねがけされているというか、複数なんだよってことですね。
さいきん『ファイナルファンタジー15』が発売されてちょっと思ったのが、拡張現実のありかたがもうただきれならいい、美しい風景があればいい、現実とうりふたつならいい、っていう時代は終わったってことなんですね。拡張現実の精度じゃなくて、拡張現実のクオリティというか質が求められている。
もう精度というかきめ細かさとか美しさっていうのは飽和状態で、拡張現実を使ってわたしたちはなにができるのかっていうのが問われてる気がしますね。その意味で十年かけてつくられたFF15はいろいろ考えさせられるものがありますね。

ながや:ゲームへ没入できるかどうかっていうのは、情報密度だけの問題ではないですよね。今30年前のファミコンのソフトをプレイしても十分おもしろいですから、ゲームでどんな体験が得られるのか、攻略意欲が湧くかどうか。たとえば携帯ゲーム機のニンテンドー3DSはグラフィックではPSVitaには及ばないですけど、すれちがい通信とか、映画館でポケモンがもらえる企画とかをみていると、ゲームの外側、つまり現実も含めて楽しめる体験がたくさん得られるようになっています。現実とゲームに連続性を持たせる任天堂のスタイルを感じますね。

柳本:あのポケモンGOみたいに実際の土地と結びついた拡張現実の方がきめ細かくなくてもおもしろいと感じてしまうってことなんだと思います。拡張現実のクオリティの操作ですよね。それは現実との接続を意識した。
たとえば今回評を書いていただいた岡野大嗣さんはそうした歌人のひとりなんじゃないかと思って、岡野さんがご自身の歌集に安福さんの挿し絵をふんだんにとりいれられたのもそうだし、今回の評でタカギトオルさんの写真を紹介されているのもそうだし、あと『サイレンと犀』のイヴェントもたびたびされているけれど、それも短歌の拡張現実のクオリティをひとつずつ検証していく試みだと思うんですよ。

ながや:以前開催されていたとととと展の様子をネットで追っていましたがやっぱり、短歌と絵、短歌と写真など〈AとB〉をつなげる岡野さんは「と」の人なんだなぁっていう印象がつよいです。「と」ついては柳本さんは特集の対談でも安福さんと話されていましたし、ブログでも書かれていましたね。(http://yagimotomotomoto.blog.fc2.com/blog-entry-822.html

柳本:とととと展のときに参加させていただいて、ああこういうやりかたがあるんだなあってすごくおもしろかったです。いろんな短歌の拡張現実を試みていくというか。ただ短歌の内容としても岡野さんの短歌は拡張現実ってなんだろうっていうのをたえず問い返している気はします。あのサンドイッチがハムとレタスとパンにわかれるのもある意味、サンドイッチの拡張現実ですよ

ハムレタスサンドは床に落ちパンとレタスとハムとパンに分かれた /岡野大嗣『サイレンと犀』

ながや:サンドイッチっていう存在の意味とか価値がバラバラになっていくのがこの歌のおもしろさだと思うんですね。ハムレタスサンドを見る目を変えてしまう一首です。どうしようもないゲームオーバーな感じで、それなりにショックなはずなんだけれど特別感情は書かれていなくて淡々と事実が述べられています。この淡々とした事実確認が、身もふたもないことを決定的に印象づけて、再度存在の意味を問い直しています。「パン」と「レタス」と「ハム」、それぞれの存在を浮かび上がらせているんですよね。パーツを「と」で結んで強調すると、ハムレタスサンドがハムレタスサンドではなくなってしまったことがありありと伝わってくるし、この歌を読んだ後に実物のハムレタスサンドをみると、部分に目がいくようになってしまいます。


次回へつづきます。

posted by かばん at 00:39| かばん電子版 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする