2017年01月07日

電子版配信記念特別対談 特集「描く短歌」を終えて(第2回) ながや宏高×柳本々々

かばん 2016年12月号 -
かばん 2016年12月号 -


前回の対談はこちら

【絵と短歌とインターネット】

柳本:いまたまたま「組み合わせ」の話が出たからちょっとお話してみたいと思うんですけれど、唐崎さんの今回の原稿いただいて面白かったのが、歌詞とイラストの組み合わせのことを話されてましたよね。歌詞画文化っていうのかな。あれ、ケータイ文化ですね。
で、たしかにあれ一時期あったんですよね。へえ、ああそうか、短歌と絵のルーツってケータイ文化からくみ取ることができるんだって非常におもしろかったんです。

ながや:振り返ってみるとケータイ文化って、絵文字、写メール、デコメールなど何かと気軽に文字とイメージを組み合わせられる楽しさがありましたね。

柳本:ツイッターみてると、すごくストレートな愛の言葉にほわっとしたイラストがついてる、あれはなんといえばいいんだろう、そういうカップル愛を絵と言葉にしたものありますよね。「一生ふたり。」みたいな。絵と言葉ってそういうパッケージングでむしろ流通してるんだなあと思って。
だから安福さんの絵と歌みたいのも抵抗がないし、安福さんが話されていたんだけど、あれを短歌ってわかってないでみてるひともいると思う。なにかいい言葉としてただたんに。
たぶん、相田みつをさんとかもそういうかんじで、受け止められていたようなきもするんですよね。

ながや:なるほど、歌詞画も含めてネットで拡がってきた絵と言葉の流通を考えるとおもしろいですね。普段短歌を読んでいない人にも「食器と食パンとペン」が受け入れられる理由のひとつかもしれません。 相田みつをさんの作品も普段詩を読まない人にも伝わってますよね。あたりまえですがあの文字がゴシック体とか明朝体だったら印象がまるきり変わってしまうでしょう。
絵葉書っていうものもありますし絵と言葉による表現というのはもちろん古くからあるわけですが、いまのpixivとかTwitterをみているとやっぱりインターネットによって「1枚の絵+言葉」を発信、受信して気軽に楽しむ文化と土壌ができあがっているということは言えますよね。LINEのスタンプをつかったコミュニケーションもこうした文化の流れの延長線上にあるように思います。

柳本:LINEのスタンプ機能の話おもしろいと思いますね。Twitterにも動画がかんたんにつけられるようになって、どんどん言葉とイメージの融合というかアマルガムがすすみますよね。そうするとそもそも言葉を絵と込みで考える感性が育ってきてもおかしくないと思います。
エクリチュールというか、書くという行為って考えてみると、メールやLINEなどのデジタルメディアが教育してるわけですよね。そうするとスタンプとか顔文字とか絵文字とかそういうのを込みで「書く行為」が育ってくる。
だとしたら、読むっていう行為が、絵とともに意味を解凍する方向にいっても「自然」なんじゃないかというのはあるような気がします。だから文字や意味、読むっていう行為を考えるときに、イメージを排斥した考え方は「不自然」なんじゃないかくらいに思ったほうがいいのかもしれませんね。
さっきの話でもあるんだけれど、たとえばゲーム、マリオでもいいんだけれど、ゲームってイメージとテキストが混合された世界ですよね。だからイメージとテキストがまじりあった表現ってすごく自然なんじゃないかと思いますね。極端にいえば、相田みつをさんとマリオはおなじライン上に並ぶこともできるんじゃないでしょうか。

ながや:「自然」っていうの良くわかります。相田みつをさんとマリオかぁ、おもしろいですね。発信者はテキストをどう読んでほしいのかっていうのを自己解釈して受信者に渡したくなってしまうものだし、そうせずにはいられない気持ちがある。たとえば少女幻想共同体さんのLINEスタンプ 
https://store.line.me/stickershop/product/1227207/ja) 微妙で絶妙なんですよね。肥大した自意識と誰かとつながりたいさみしさっていうんでしょうか、現代的なこのやるせないもやもや感が少女幻想共同体さんのスタンプだと、かわいらしさと共にすっとしみ込んでくるんです。だから、自然だなぁって。

柳本:だから今回の企画をとおして思ったのはもしかしたら文字メディアって一見ナチュラルな顔をしているけれど、ほんとうはすごく不自然なんじゃないの、歴史的に遡行して考えたほうがいいんじゃないの、っていうことかもしれないですね。
つまり、どっかで、文字を自然と受け取るようになってしまったんだけれど、どこかまでは不自然さとして受け止めていたかもしれない。とくに短歌っていうのは「歌」ですからね。文字ではないので。
そういうところをたえず問いかけている文芸が短歌なんじゃないかって思いますね。
そういう短歌っていうのはテキスト以外のものをたえず問いかけてくるっていうのかなあ。

ながや:幼年期に最初に体験するメディアのひとつが絵本じゃないですか。イメージを中心に受け取る方が人間にとってより原初に近いのかなと思います。音楽(歌)と絵(視覚メディア)って言葉よりも長く人類が続けてきた芸術ですから、文字より、心も体も受信しやすいのかもしれません。だから、人間の中にある言語外の領域をいかに刺激するかが短歌のおもしろさなんじゃないかっていうことを今回の「描く短歌」以降、よく考えるようになりました。

【幻のあたたかさ】

ながや:しかし一方で、イメージとテキストを混じり合わせる表現って言葉の意味や解釈の幅を絞ることでもあるんじゃないかと思うんです。
前にみたテレビ番組で井上陽水さんがメールをするときに絵文字をたくさん使うっていう話をされていたのがおもしろかったんですが、録画データがないので、そのときのことについて書かれた本から引用しますね。

リリー・フランキーさんが、陽水さんからのメールには絵文字が使われていると、テレビで話していた。どうして絵文字を使うのかと尋ねたリリーさんに、陽水さんはいつもの笑みをこぼしながら、「言葉だけだと意味が伝わりすぎるでしょう」と答えていた。 
齋藤孝『軽くて深い 井上陽水の言葉』(角川学芸出版)

「言葉だけだと意味が伝わりすぎるでしょう」これ、なるほどなと思ったんです。

柳本
:へえ、おもしろいですね。

ながや:テキストだけだと情報が少ない分、必要以上に深読みしてしまったり誤解をまねいたりします。言葉だけだと味気ないし、ひとことじゃ伝えられないと思っていろいろデコったり、スタンプを使ってみたりして、意味を付け足そうとしているかのようにみえるけれど、実は方向性を提示して意図しない解釈の可能性を消していく行為でもあるんだと思います。
言葉の解釈に正解を持たせるとか、そういうことにはもちろんならないですが、本当は消えてしまう領域の方が圧倒的に大きいはずなんです。さっきのオノ・ヨーコさんの『天井の絵』に話をもどすと、あの作品の場合は解釈の可能性が広大なのが特徴でした。その分想像力を試されるおもしろさとつらさがあるわけです。

柳本:イメージは方向性の提示ってなるほどって思いました。言葉と絵があることによって意味が(悪い意味で)豊かにもなりうるし、意味が(いい意味で)貧困にもなりうるってことですよね。
その意味でおもしろかったのは、ご自身の短歌を絵にされる場合、どういうことが起こるだろうってことなのかなあとも思います。
たとえば東直子さんの短歌の私が感じるおもしろさのひとつは、言葉が言葉どおりの言葉であることをやめたところから出てくる意味にできないなにかだと思うんです。ふだんの意味とはちがった意味がふだんの言葉からでてきてしまう。そういう短歌としてのおもしろさがあると思うんです。

ながや:確かに東さんの短歌って言葉で言い表しにくいなと思うことが多いです。とても良いなと思っているのに。

柳本:でもそのなにかは意味に還元できない。それってでも絵もそうですよね。絵は言葉で説明できない、意味にならないから絵なわけで。東さんの描かれた絵をみるときに、東さんの短歌とおなじふうな・ちがったかたちを見いだせるのがおもしろいなと思います。それがなにかっていうのは難しいんですけどね。でもなにかやっぱりそこには共通性がある。今回描いていただいた東さんの短歌の「幻になってもまだあたたかい」って東さんの世界の一端のような気もしました。意味にならないなにかなんだけれどもあたたかさがある。ふたしかさのなかにたしかさが感じられる。短歌ってそういうものじゃないかって気がしたんです。「幻のあたたかさ」を感じられること。

ながや:12月号の特集の対談の中で安福さんと柳本さんは穂村弘さんの「海の生き物って考えてることがわかんないのが多い、蛸ほか」という歌について語られていますよね。世界の不確かさ、蛸みたいにふにゃふにゃしたものが短歌のなかにあって、それは世界から取りこぼされた断片だっていう。で、その「ふにゃふにゃ」って東さんの歌と絵に共通していますよね。「意味にできないなにか」ってふにゃふにゃしてると思うんです。だから特集に寄稿されている東さんの絵にクラゲがでてくるのは偶然ではなくて、やっぱりふにゃふにゃをとらえようとした結果こういう絵になったんじゃないでしょうか。そう考えると少女幻想共同体さんが特集で村木道彦さんのマシュマロの歌(するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら)を選んで絵にされたのもなんだか腑に落ちます。

柳本:ああほんとそうですね。今回絵を描いていただいた東さんや少女幻想共同体さんの絵が幻想的というか非境界的な輪郭が志向されているのは、そういう意味に決めうちできない短歌の性質をとらえているようでおもしろいです。もしかしたら鑑賞や感想という意味決定よりも、絵のような非意味の言語のほうが短歌を「そのまま」とらえることができるのかもしれませんね。

ながや:「そのまま」、そうですね、僕は言葉で伝える感想や評よりも1枚の絵の方が説得力を感じるんです。「食器と食パンとペン」がたくさんのフォロワーに喜ばれているのってやっぱり感覚的にうれしいからだと思うんですよ。もちろん言葉で説明できることもあるかもなとは思いますが、なぜうれしいかっていうと、絵を見た人、短歌を読んだ人それぞれの中にある、ふにゃふにゃした説明しようのない部分が表現されているから、というのがひとつあると思うんです。それはきっと「幻のあたたかさ」に包まれる瞬間でもあって、だから、「意味に決めうちできない」んだなって。

柳本:さっきながやさんが陽水さんの言葉を引用されて、「言葉だけだと伝わりすぎる」って話されていたけれど、絵っていうのは伝わらないのがいいのかもしれないですね。でもまあ大事な概念って伝えきれないというか、説明できないものが多いですよね。死とか性とか好きとか。でも絵というかイメージであっけなく体でわかってしまう場合がある。私にもやがて死がくるんですけど、やがてくる死ってそういうふうにふっとわかってしまうのかなあって。

ながや:今年度の『かばん』の表紙絵は杉ア恒夫さんの歌集『パン屋のパンセ』をモチーフに少女幻想共同体さんに描いていただいているのですが、少女幻想共同体さんが描く世界ってあの世みたいな雰囲気がするんです。
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少女幻想共同体『12階かんむり売り場でございます』
/手紙魔まみトリビュート作品集『手紙魔まみ、わたしたちの引越し』
※試し読みページより引用
http://eurekakerue.sakura.ne.jp/mami.tribute/galleriffic/01.html

僕は『パン屋のパンセ』っていう歌集の大きな特徴は〈あの世とこの世の連続性〉だと思っていて、そういう歌集を少女幻想共同体さんが絵にされたら、さぞおもしろいものなるだろうという期待がありました。
死っていうものが、頭で理解できることはないんだけど、少女幻想共同体さんの絵をみていると、ああ、死ってこういうことかもな、こういう感じだったらいいなって、なんだか思ってしまうんです。
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かばん2016年5月号 表紙
表紙絵:少女幻想共同体

【かわいい、うらぎり、しゅんかん、ねんじろ!】

ながや:今回の安福さんと柳本さんの対談の中で、安福さんの絵の中に出てくる、人と動物の話をされているじゃないですか、これも「世界のふたしかさ」とか「ふにゃふにゃ」につながる気がしています。

柳本:動物っていうのも言葉の外におかれた存在ですよね。ある意味、絵の世界の住人たちなわけですよね。その意味で、安福さんの世界になんで動物がおおいのかっていうのは考える価値があるように思います。どうしたって言葉になりようもないなにかを背負っているものが動物なのかもしれない。たぶん宮沢賢治の小説に出てくる動物たちもそうなんじゃないですかね。クラムボンだって説明不可能ななにかですよね。

ながや:宮沢賢治の作品に出てくる動物たちはいつも異界の側にいて、人間が認識できる世界だけが世界じゃないっていうことを教えてくれます。その世界ってやっぱり言葉の外の世界だと思います。
じつは東さんの絵も唐崎さんの絵も、少女幻想共同体さんのさっきのLINEスタンプにも動物がいっぱいでてくるんですよね。動物は言葉の通用しない言語外の存在っていうことと、あともう一つ大きいのは動物のかわいさだと思うんです。「かわいい」は、ふたしかで、ふにゃふにゃで、言葉にできません。

柳本:そうですね。トトロやベイマックスに感じる感情もふにゃふにゃというかふわふわが基調になっていると思うんですよ。猫バスもそうかな。ボディを過剰にふわふわさせたとき、そこに人間との差異がでるんじゃないでしょうか。だからトトロの眼がどこをみているかわからないようになっていたり、ベイマックスの眼が微動だにしないのもたぶん、言葉とか内面が問題になってないからなのかもしれませんね。言葉にならない、ふわっふわしたもの。ベイマックスはまあ動物じゃないんだけど、ベイマックスは動物的だと思いますね。まあトトロなんですけど、ベイマックスは。

ながや:差異っていうと、たしかに言葉とか内面って人間の問題ですからね。ベイマックスとヒロの関係は言葉のディスコミュニケーションのあとの接触によるコミュニケーション、ふわふわボディからのハグを印象的にみせていました。トトロたちと、サツキとメイも言語外の領域で交流しているじゃないですか。こどもはまだ言葉の領域に入りきっていないというか、動物側/異界に近い存在っていうことだと思うんですよ。だからこどもにはトトロがみえる。
「かわいい」って、もちろん言葉で言うことには言えるし、人間が「かわいい」と感じるデザインの体系みたいなものもあるかもしれないんですけど、本来「かわいい」はわからなさの中に、言葉の外にあるんじゃないかっていつも思います。だから、説明不可能で、そもそも人間には把握しようがない。動物のアンコントローラブルなところってドキドキさせられますよね。通じ合えることもあるけど、人間の言葉も内面も関係なく勝手に生きている感じ。

柳本:動物たちはたえず人間を裏切っていくと思うんですよ。それは犬や猫と暮らしていてもそう思うんですよ。わたしたちを理解しないことの大切さというか。

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かばん2016年1月号表紙 
表紙絵:東直子

裏切りといえば、今回特集で久真八志さんに書いていただいた原稿を読んで考えさせられたのが、絵と短歌ってかならずしも仲良くはないんです。どっちかがどっちかを裏切っていくことがある。
でもだからこそ、短歌と絵にはおもしろさがあるんだなとも思いました。その裏切りがあらわれたときに、はじめて絵や短歌にちかづけるものがあるような気がして。
もしかしたら、意味がうまれる瞬間って裏切りのしゅんかんなんじゃないかと思うんですよ。なにか意味がうまれるときってそういうときじゃないですか。じぶんがこうだなって思っていたのが、ほんの少し裏切られたとき。そうではあったんだけれども、そうでもなかったとき。

ながや:裏切りの瞬間って、さっき話した「言葉の意味や解釈の幅を絞る」っていうこととつながりますね。あるひとつの意味がうまれる瞬間って逆を言えばその他の意味でよまれる可能性が消える瞬間でもあります。でもどこかで踏み込まないと作品に出会ったことにおもしろさもうれしさも生まれない気がしますし、どう踏み込んだかっていうのが、描き手、読み手の個性になるはずです。
僕は短歌を絵にすることはできませんが、短歌を読むときは勇気がいるなっていつも思います。危険を背負うことになりますから。

柳本:ああ、いや、そうなんです。勇気がいるし、少し「狂気」の状態になる必要がありますよね。なにかを決める、意味を決めるってそういう状態なんじゃないですかね。理屈とか分別とかからふっと逸れて、「これしかない」って決めてしまうしゅんかん。それは読むだけじゃなくて、表現するときもなんらかのかたちでそうなのかもしれないですよね。ひとが意味に出会ったり別れたりする瞬間って、そういうことなんじゃないかって思います。自分でまったく説明できない、不可解な、不思議な、でも「それしかなかった」しゅんかん。

ながや:できあがったものを後から振り返ると選択肢がみえたりすることもありますが、狂気というか夢中というか、そういう状態では「これしかない」っていうところで決断しているもので、その決断の瞬間に、なにかが宿って作品になったり、評になったりしていくのかなって思います。
うん、そうですね、「しゅんかん」。今回もまた良いキーワードに出会えました。
今日はありがとうございました。おもしろかったです。また機会があったらよろしくお願いします。

(おしまい)

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2016年12月25日

かばん 2016年12月号 電子版配信のお知らせ

【おしらせ】かばん2016年12月号をkindleで配信します

「電子書籍元年」と呼ばれた2010年からおよそ6年。電子書籍は確かに、読書のひとつの選択肢として一般に広がりを見せています。
短歌においても例外ではなく、電子書籍として出版される歌集や総合誌はここ数年で少しずつ増えてきているようです。
歌集・歌書は少部数で出版されることが多いために、後々入手困難となってしまう、といった問題を常に抱えてきました。
その点、電子書籍は発行部数に限りがなく、サービスが続く限りは継続的に入手可能です。情報のアーカイブ化という観点からも、歌集・歌書の電子書籍化は有用といえるでしょう。
またもちろん、地方や海外在住などで歌集を入手しづらい方、毎日何冊も本を持ち歩くので鞄が重い方、大量の本で床が占領されてしまっている方など多くの短歌読者にとっても、電子書籍は喜ばしい技術であると思われます。

このような昨今の状況をふまえ、歌人集団かばんでは新たな試みとして、本誌の電子書籍化を推進することとなりました。
そこでこの度、本誌電子書籍化第一弾として、最新号12月号をkindleで配信開始いたします。

かばん 2016年12月号 -
かばん 2016年12月号 -

12月号は年に2回の特別号。会員作品のほか、二つの特集企画が組まれております。

特集1「描く短歌」では、さまざまな視点から”短歌×絵”のコラボレーションについて語られる好企画です。
「食器と食パンとペン」というTwitterアカウントで、短歌をもとにしたイラストを発表され人気を博す安福望さんとかばん会員・柳本々々による対談。
安福望さんの装画で第一歌集『サイレンと犀』を出版された岡野大嗣さん、今月第三歌集『山椒魚が飛んだ日』を出版され、写真にも造詣のある光森裕樹さん、そして会員・久真八志による”短歌×絵”をテーマとした評論。
"歌集『しんくわ』(著・しんくわ)等の装画・装丁で話題の唐崎昭子さんや、杉ア恒夫の短歌と愛らしいイラストで毎号「かばん」表紙を飾ってくださる少女幻想共同体さん、昨年までの「かばん」装画で、暖かな筆致とどこか不穏な生命感のあるイラストが魅力の会員・東直子、以上三名によるイラスト+エッセイ。"
紙の「かばん」はモノクロですが、電子版ではこれらのイラストもフルカラーでご覧いただけます。

もうひとつは、山田航第二歌集『水に沈む羊』特集。
第一歌集『トントングラム』以降活躍の場を広げ続ける伊舎堂仁さん、Twitterやブログなど主にネット上で日々短歌作品の鑑賞をされている工藤吉生さん、会員・伊波真人の三名から、本歌集の書評をお寄せいただきました。
歌壇内外から高評価を得た2012年の第一歌集『さよならバグ・チルドレン』に次ぐ本歌集について、三者三様に語っていただいております。
著者・山田航による自選20首とエッセイも掲載。

さらに、かばんゲストルームには詩人・疋田龍乃介さんをお迎えし、詩「蕎麦道悶々」をお寄せいただいております。

その他、入谷いずみによる「かばんBN(バックナンバー)」では2002年12月号の紹介。「今月の一冊」では睦月都による斉藤斎藤第二歌集『人の道、死ぬと町』書評、「今月の歌」は森本乃梨子と柳本々々が執筆します。

特別号ということで、会員作品も普段より熱気を帯び、ボリュームたっぷりの一冊となりました。
年末年始のおともに、ぜひご覧ください。
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電子版配信記念特別対談 特集「描く短歌」を終えて(第1回) ながや宏高×柳本々々


歌誌『かばん』2016年12月号は電子書籍版がkindleで配信されました。
かばん 2016年12月号 -
かばん 2016年12月号 -
電子版配信を記念して2016年度かばん編集人ながや宏高と12月号の特集「描く短歌」チーフの柳本々々の特別対談をお送りします。

【レイヤーと短歌と拡張現実】

ながや:先日購入した山中千瀬さんの『さよならうどん博士』を読んでいたら、柳本さんに絵と短歌のことでお話してみたいことが見つかりまして、お呼び立てしてしまいました。今日はよろしくお願いします。

柳本:よろしくお願いします。『さよならうどん博士』いいタイトルですね。

ながや:いいタイトルですよね。とてもおもしろかったので、柳本さんと共有しておきたいなと思ったんですよ。以前、BLOG俳句新空間の短詩時評で「絵と短歌」というテーマで柳本さんと対談させていただきましたが、(http://sengohaiku.blogspot.jp/2016/07/tanshi23.html?m=1
『かばん 12月号』掲載の特集「描く短歌」の制作を終えたいま、あの時とはまた別の切り口で「絵と短歌」についてお話しできる気がしています。

柳本:そうですね。今回の特集をさせていただいていろいろ勉強になったことがたくさんありましたね。あの時評の時は企画が始まる前の短歌と絵に対する思いで、今回は、じゃあその企画をやってみてどう思ったのかという〈以後〉の話になる感じですかね。

ながや:はい、ではまず『さよならうどん博士』から3首引きますね。

落ちるように音は飛ぶ想像上のラインをつなぐあかりをともす
さようなら咲かない花火もういやなんだって言えば時雨【ルビ:じう】つめたいよ  
窓際の少女の肥えた指がさす海辺には観覧車もなくて
/山中千瀬『さよならうどん博士』  


ながや:いまそこにみえないものをイメージして風景に重ねていくっていうのが山中さんの短歌の特徴のひとつだなと思いました。目にはみえなくてもイメージとしては語り手にとって確かに何かがみえていて、読者はそのイメージを追体験できる、それがとてもおもしろいなと。 〈想像上のライン〉も〈花火〉も〈観覧車〉もいまそこにみえないとしても、まるでレイヤーを貼り付けるような感じで別次元のイメージを読者に与えてくれます。山中さんの歌そのものが「レイヤー」なのではないか、ということもいえるかもしれません。

柳本:ああ。「レイヤー」って絵の世界のことばですよね。そもそもそういう「レイヤー」っていう言葉が、短歌の読解として使えるんじゃないかというながやさんの発想はすごくおもしろいと思いました。山中さんの短歌が、そういう違った読み方をひっぱりだす可能性をもっているのもおもしろいなって思います。
短歌っていろんな構造の組み立て方がなされるから、読み方だっていろいろな構造の立て方を歌に応じてしてもいいのかもしれないですね。それが今回、絵と短歌という企画をやってみてわかったことかもしれない。

ながや:また、唐崎昭子さんがデザインした『さよならうどん博士の』表紙と表紙裏はレイヤーをとても意識させられます。
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ながや:絵と短歌で、表現方法は違いますが、「レイヤー」というのは山中さんと唐崎さんに共通するところだと思いました。 これらを踏まえたうえで、『かばん12月号』の特集「描く短歌」に唐崎さんが寄稿してくださった作品を見ると、やはりこれも背景が加工された写真で、その上に言葉と絵が重なっています。

でもきみでなくてもよかったということ暮れる川辺でいつか話そう 山中千瀬
※唐崎さんにはこちらの歌を絵にした作品を寄せていだきました。


ながや:この歌は未来の出来事をイメージしているわけなんですが、語り手が今どこにいるのかはわからない、でもどこか、何かしらの風景を今みていてその中にいるはずなんです。そうした風景の上にイメージと言葉(短歌)を重ねていく、だから、今回12月号で唐崎さんに寄稿していただいた絵もこういうレイヤー構造になっているんじゃないのか、と思いました。

柳本:うん、そうですね。今回の唐崎/山中さんの絵と歌がほんと今ながやさんのおっしゃったレイヤーというかテキストと絵が〈重ねられた〉絵なんですよね。
で、レイヤー構造について考えたとき、もしかしたらそもそも短歌ってレイヤー構造と親しいのかなあって思うんですよ。そもそも短歌って短いですよね。だから読み手が文脈や背景を用意するしかないわけです。その意味で、短歌って「レイヤー的読解」がつねに必要とされているわけですよね。今まで私も気づかなかったけれど、でも、無意識でたぶんそういうことをやっているわけですよね。背景を用意して、透かして、読む。透かして背景をみるって行為ですね。今回の唐崎さんの絵はその意味で、短歌の構造そのものをめぐる絵になっているかもしれないですね。とても示唆的だと思います。
光森裕樹さんも今回の評で話されていましたね。光森さんがつくられたフィルムに印字された短歌、フィルムメディアは白い紙の上に置いたりして透明だから背景をいろいろ変えられるって。

ながや:確かに、背景をみているのかもしれませんね。評論や短歌を絵にする行為もまず、それぞれ読み手の中にある背景が否応なくあぶり出されてしまう感じがして、ドキドキします。レイヤーをどこに貼るのか、貼ると何が浮かび上がるのか、背景はどう映るのか、そういう問いを持つことも短歌を読むことなのかなって。

柳本:うん、絵ってそういうのを可視化しますね。山中さんの絵をみて、はじめてそういう構造に気がつくというか。構造の可視化が、絵ですね。無意識になんとなくもっている構造を見えるようにすること。

ながや:光森さんが評のなかでおっしゃっている写真と短歌の透明なカードもそうですね、あの『石垣島 2013』と『Madagascar 2012』(http://www.goranno-sponsor.com/book/ishigaki_madagascar.html)という作品は現実という背景に別の世界を想像させる写真と、短歌を重ねながら楽しむことができるメディアでした。これは評の中でもでてくる言葉ですが〈拡張現実〉ですよね。このカード自体〈拡張現実〉な作品だったんだなって評を読んだことで気づきました。

柳本:拡張現実もどちらかといえば視覚文化の領域のことばですよね。光森さんの歌集の『鈴を産むひばり』って活版印刷の歌集なんですよね。活版印刷だから文字の物質性がでてくる。文字の凸凹した感じの。
だから文字の形式が内容をまず規定するわけです。あ、なにか文学的な空間だなとか、あとなにか文字の置かれた環境を意識せよってことなのかもしれないなとか。
それもひとつの拡張現実ですよね。文字メディアそのものがひとつの拡張現実ですからね。拡張現実ってメディアへの意識そのものかもしれないですね。メディア志向性というか。

ながや:光森さんは活版印刷、電子書籍、カードと、いろんなスタイルを実験されている印象が強いです。その光森さんがいま拡張現実に注目されているのは興味深いですね。

柳本:そういう拡張現実って短歌という情報が少ない文字メディアはとくに親和性が強いような気がします。短歌っていうのは「こう読んでほしい」みたいなのは情報が少ないから読者に伝えられないんだけれど拡張現実のパッケージングをほどこすことで読者に伝えられるようになるわけですよね。

ながや:パッケージングによって伝わりやすくなりますし、そこでまた新しい問いや発見が生まれていくのがおもしろいですよね。

柳本:あの斉藤斎藤さんの『渡辺のわたし』の最初のデザイン、ブックパークの方の装幀がまっしろだったんだけれど、それは、前提なく読め、ってことだと思ったんですよ。それもひとつの拡張現実の用意だと思うんですよね。
真っ白な装丁って、榮猿丸さんの句集『点滅』とか太宰治の『晩年』の初版とかいろいろあるんですけど、〈なんにもないまっさらな空間〉をあえて用意するのもひとつの拡張現実を用意するってことだと思います。短詩って短いからコードというか枠組みを用意したくなるんだけれど、あえてしないという〈白さ〉のような。

ながや:周辺情報が伝えられないからこそより自由な広がりと解釈をもつことができます。そう考えると短歌って相当いろんなことを読者に委ねていますよね、こんなに委ねちゃっていいのかっていうくらい。いろんな作り手読み手がいるから、一概には言えないことだけれど読み方の正解が出せないからこそ、個々人のなかにある想像力が試されていくし、現実は拡張されるんだと思います。
『渡辺のわたし』の装幀にしてもそうですが白くて情報が少ない装幀をみると、何かちょっと落ち着かないというか、まっ白くてなにもない部屋に連れて来られたみたいな感じがします。

柳本:あ、そうですよね。自分で考えなさい、ってことですよね。ある意味。読むための道具は、じぶんで用意しなさい、って。白っていうのは、読むたびに汚れていくっていう象徴的な意味合いもありますからね。読むっていうことは自分でその汚した責任を引き受けるみたいなことですね、大きく言えば。読みの責任というか。

ながや:オノ・ヨーコさんの『天井の絵』っていう作品があるじゃないですか、まっ白な天井にすごく小さな字で書かれた「YES」という言葉を、脚立に登って虫眼鏡でみるっていう作品。
僕も何年か前にレプリカでしたけど展示されているのをみに行ったことがありまして、とても感動したんですけど、なにがすごかったかというと、虫眼鏡を通して拡大された「YES」という言葉をみた瞬間、「YES」よりむしろ天井一面の白、余白がまず強烈に迫ってくるんです。情報の少なさと余白の広さで、否応なく何かを想像せずにいられないし、自分自身を問われてしまう、そしてそれらを一点集中で「YES」が引き受ける。
この感じは、短歌を読む時の感覚に近い気がします。歌集の余白の多さって、想像させる余地をあらかじめ用意してくれているっていうことで、だから柳本さんがいまおっしゃった「文字の置かれた環境を意識せよ」「拡張現実の用意」って本当、その通りだなって。

【浮かび上がる短歌】

柳本:最近、VRのゲームが出てきましたよね。PSVR。で、これから拡張現実がもっともっと日常化していくと思うんですよね。Googleグラスとかもそうですよね。そうすると感覚の基盤そのものが拡張現実に基づいてできあがってくるかもしれないですね。感性の基礎工事が拡張現実によって行われる。
でも80年代初頭に生まれたファミコンやディズニーランドという拡張現実によって感性は実は育ってきたんじゃないかと歴史を見直すこともできるような気がします。

ながや:現実と違うルールで動いている世界に入っていく体験というのは確かにゲームであり、テーマパークですよね。ドラクエも、もう古典というか物語のテンプレートのひとつになっていますし、ディズニーもハリーポッターシリーズもずっと人気だから、もうファンタジーブームって言う必要がないくらいです。常に起こっていることだから「普通」になっていますね。映画でよく見るCGの映像は多くの人が慣れてきたところです。そして人々の感覚が「普通」になった今、VRのゲームが満を持して広がりだしているのだなあって。

柳本:たとえばVRで空間をみると、短歌があちこちに浮かんでいるなんていうのもでてくるかもしれないですね。短歌はバーチャル空間も旅できるくらい短いですからね。

ながや:場所とか物質から短歌が浮かびあがってきたらおもしろいです。セカイカメラとか思い出しますね。たぶん似たようなことは誰しも脳内でやっているんだと思います。

柳本:ああ。歌枕ってでもそもそもそういうことだったし、ある意味で、VRだったのかもしれないですね。徹夜しながら土地を詠み込んでいく柿本人麻呂や歌枕を求めて旅をする芭蕉なんかもそうかもしれないけれど、その土地のなにか聖なる部分にアクセスすると、ふっとことばが浮かんでくるというか。ちょっとポケモンGOみたいですね、それはある意味で。ラプラスが出現したからお台場にいくとか。ハクリューを集めるためだけに世田谷公園にいくとか。

ながや:世界の裏側にアクセスできるみたいなワクワク感ですよね。歌枕も、知らない人にとってはただの風景ですし、アニメの聖地巡礼もそうですけど、知っている人と知らない人の温度差っていうのもおもしろいですよね。幽霊がみえる人とみえない人みたいです。みえる人、わかる人にとっては真実だし、特別な体験であるわけです。

柳本:そのためには実際、旅をするひつようがあるんですよね。言葉とかデータはバーチャルなんだけど、でも身体を現地にアクセスさせてはじめて成立するんですね。

ながや:僕は杉ア恒夫さんの短歌のファンなので、蝉が仰向けで死んでいるのをみると、瞬間的に「ひとかけらの空抱きしめて死んでいる蝉は六本の脚をそろえて」という歌がニコ動のコメントみたいに頭の中に流れてきます。
短歌の読者ってそういう、何かの拍子に瞬間的に思い出せる短歌をいくつももっているのではないでしょうか。パッと浮かんできやすいのも短歌の特徴ですよね。

柳本:今のながやさんのそのニコ動のコメントの例おもしろいですけど、そういうふうに思考や認識のフォーマットって実はその時代時代のメディアが用意しちゃってるのかもしれないですよね。
本能的な部分って実はメディアがフォーマットを用意してるんじゃないの、って思うことけっこうあるんですよ。今年すごく騒がれた不倫だって、会うための約束とかふだんの隠れてのコミュニケーションとかメディアがフォーマットとしてたちあげていく恋愛なわけですね。手紙ならこういう不倫、公衆電話ならこういう不倫、ポケベルならこういう不倫、メールならこういう不倫、LINEならこういう不倫みたいにね。
だから、絵と短歌という企画がおもしろいのは、そういうわたしたちの言葉をつくりあげているメディア環境を考えざるをえなくなる点だと思います。

ながや:ああ、人はいまどんなツールでどんなやり取りしているのかっていうことが、言葉の生成にとても影響を与えますよね。LINEもTwitterもニコニコ動画も2chもそれぞれ場の要請みたいなものが働いて知らず知らずのうちに、みんなで似た文体をつかっているようにみえるのがおもしろいです。もちろん細部は違うけれど、何か似た雰囲気を共有し合っている感じがします。
じつはポケモンGOをはじめてプレイした時、奇妙な開放感があったんです。自分が立っている場所の地図が画面上に映し出されて、そこにフシギダネとヒトカゲとゼニガメがパッパッパッと浮かびあがってきた瞬間、なにかこう、現実の上に新しい世界が重なって広がっていったんです。これも思考や認識の本能的な部分がメディアに用意された事例だといえそうです。そして短歌にもこのような開放感があると思っています。これもまたレイヤー的な話になりましたね。

柳本:あ、そうですね。実は現実って重ねがけされているというか、複数なんだよってことですね。
さいきん『ファイナルファンタジー15』が発売されてちょっと思ったのが、拡張現実のありかたがもうただきれならいい、美しい風景があればいい、現実とうりふたつならいい、っていう時代は終わったってことなんですね。拡張現実の精度じゃなくて、拡張現実のクオリティというか質が求められている。
もう精度というかきめ細かさとか美しさっていうのは飽和状態で、拡張現実を使ってわたしたちはなにができるのかっていうのが問われてる気がしますね。その意味で十年かけてつくられたFF15はいろいろ考えさせられるものがありますね。

ながや:ゲームへ没入できるかどうかっていうのは、情報密度だけの問題ではないですよね。今30年前のファミコンのソフトをプレイしても十分おもしろいですから、ゲームでどんな体験が得られるのか、攻略意欲が湧くかどうか。たとえば携帯ゲーム機のニンテンドー3DSはグラフィックではPSVitaには及ばないですけど、すれちがい通信とか、映画館でポケモンがもらえる企画とかをみていると、ゲームの外側、つまり現実も含めて楽しめる体験がたくさん得られるようになっています。現実とゲームに連続性を持たせる任天堂のスタイルを感じますね。

柳本:あのポケモンGOみたいに実際の土地と結びついた拡張現実の方がきめ細かくなくてもおもしろいと感じてしまうってことなんだと思います。拡張現実のクオリティの操作ですよね。それは現実との接続を意識した。
たとえば今回評を書いていただいた岡野大嗣さんはそうした歌人のひとりなんじゃないかと思って、岡野さんがご自身の歌集に安福さんの挿し絵をふんだんにとりいれられたのもそうだし、今回の評でタカギトオルさんの写真を紹介されているのもそうだし、あと『サイレンと犀』のイヴェントもたびたびされているけれど、それも短歌の拡張現実のクオリティをひとつずつ検証していく試みだと思うんですよ。

ながや:以前開催されていたとととと展の様子をネットで追っていましたがやっぱり、短歌と絵、短歌と写真など〈AとB〉をつなげる岡野さんは「と」の人なんだなぁっていう印象がつよいです。「と」ついては柳本さんは特集の対談でも安福さんと話されていましたし、ブログでも書かれていましたね。(http://yagimotomotomoto.blog.fc2.com/blog-entry-822.html

柳本:とととと展のときに参加させていただいて、ああこういうやりかたがあるんだなあってすごくおもしろかったです。いろんな短歌の拡張現実を試みていくというか。ただ短歌の内容としても岡野さんの短歌は拡張現実ってなんだろうっていうのをたえず問い返している気はします。あのサンドイッチがハムとレタスとパンにわかれるのもある意味、サンドイッチの拡張現実ですよ

ハムレタスサンドは床に落ちパンとレタスとハムとパンに分かれた /岡野大嗣『サイレンと犀』

ながや:サンドイッチっていう存在の意味とか価値がバラバラになっていくのがこの歌のおもしろさだと思うんですね。ハムレタスサンドを見る目を変えてしまう一首です。どうしようもないゲームオーバーな感じで、それなりにショックなはずなんだけれど特別感情は書かれていなくて淡々と事実が述べられています。この淡々とした事実確認が、身もふたもないことを決定的に印象づけて、再度存在の意味を問い直しています。「パン」と「レタス」と「ハム」、それぞれの存在を浮かび上がらせているんですよね。パーツを「と」で結んで強調すると、ハムレタスサンドがハムレタスサンドではなくなってしまったことがありありと伝わってくるし、この歌を読んだ後に実物のハムレタスサンドをみると、部分に目がいくようになってしまいます。


次回へつづきます。

posted by かばん at 00:39| かばん電子版 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする