かばん 2016年12月号 -
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【絵と短歌とインターネット】
柳本:いまたまたま「組み合わせ」の話が出たからちょっとお話してみたいと思うんですけれど、唐崎さんの今回の原稿いただいて面白かったのが、歌詞とイラストの組み合わせのことを話されてましたよね。歌詞画文化っていうのかな。あれ、ケータイ文化ですね。
で、たしかにあれ一時期あったんですよね。へえ、ああそうか、短歌と絵のルーツってケータイ文化からくみ取ることができるんだって非常におもしろかったんです。
ながや:振り返ってみるとケータイ文化って、絵文字、写メール、デコメールなど何かと気軽に文字とイメージを組み合わせられる楽しさがありましたね。
柳本:ツイッターみてると、すごくストレートな愛の言葉にほわっとしたイラストがついてる、あれはなんといえばいいんだろう、そういうカップル愛を絵と言葉にしたものありますよね。「一生ふたり。」みたいな。絵と言葉ってそういうパッケージングでむしろ流通してるんだなあと思って。
だから安福さんの絵と歌みたいのも抵抗がないし、安福さんが話されていたんだけど、あれを短歌ってわかってないでみてるひともいると思う。なにかいい言葉としてただたんに。
たぶん、相田みつをさんとかもそういうかんじで、受け止められていたようなきもするんですよね。
ながや:なるほど、歌詞画も含めてネットで拡がってきた絵と言葉の流通を考えるとおもしろいですね。普段短歌を読んでいない人にも「食器と食パンとペン」が受け入れられる理由のひとつかもしれません。 相田みつをさんの作品も普段詩を読まない人にも伝わってますよね。あたりまえですがあの文字がゴシック体とか明朝体だったら印象がまるきり変わってしまうでしょう。
絵葉書っていうものもありますし絵と言葉による表現というのはもちろん古くからあるわけですが、いまのpixivとかTwitterをみているとやっぱりインターネットによって「1枚の絵+言葉」を発信、受信して気軽に楽しむ文化と土壌ができあがっているということは言えますよね。LINEのスタンプをつかったコミュニケーションもこうした文化の流れの延長線上にあるように思います。
柳本:LINEのスタンプ機能の話おもしろいと思いますね。Twitterにも動画がかんたんにつけられるようになって、どんどん言葉とイメージの融合というかアマルガムがすすみますよね。そうするとそもそも言葉を絵と込みで考える感性が育ってきてもおかしくないと思います。
エクリチュールというか、書くという行為って考えてみると、メールやLINEなどのデジタルメディアが教育してるわけですよね。そうするとスタンプとか顔文字とか絵文字とかそういうのを込みで「書く行為」が育ってくる。
だとしたら、読むっていう行為が、絵とともに意味を解凍する方向にいっても「自然」なんじゃないかというのはあるような気がします。だから文字や意味、読むっていう行為を考えるときに、イメージを排斥した考え方は「不自然」なんじゃないかくらいに思ったほうがいいのかもしれませんね。
さっきの話でもあるんだけれど、たとえばゲーム、マリオでもいいんだけれど、ゲームってイメージとテキストが混合された世界ですよね。だからイメージとテキストがまじりあった表現ってすごく自然なんじゃないかと思いますね。極端にいえば、相田みつをさんとマリオはおなじライン上に並ぶこともできるんじゃないでしょうか。
ながや:「自然」っていうの良くわかります。相田みつをさんとマリオかぁ、おもしろいですね。発信者はテキストをどう読んでほしいのかっていうのを自己解釈して受信者に渡したくなってしまうものだし、そうせずにはいられない気持ちがある。たとえば少女幻想共同体さんのLINEスタンプ
(https://store.line.me/stickershop/product/1227207/ja) 微妙で絶妙なんですよね。肥大した自意識と誰かとつながりたいさみしさっていうんでしょうか、現代的なこのやるせないもやもや感が少女幻想共同体さんのスタンプだと、かわいらしさと共にすっとしみ込んでくるんです。だから、自然だなぁって。
柳本:だから今回の企画をとおして思ったのはもしかしたら文字メディアって一見ナチュラルな顔をしているけれど、ほんとうはすごく不自然なんじゃないの、歴史的に遡行して考えたほうがいいんじゃないの、っていうことかもしれないですね。
つまり、どっかで、文字を自然と受け取るようになってしまったんだけれど、どこかまでは不自然さとして受け止めていたかもしれない。とくに短歌っていうのは「歌」ですからね。文字ではないので。
そういうところをたえず問いかけている文芸が短歌なんじゃないかって思いますね。
そういう短歌っていうのはテキスト以外のものをたえず問いかけてくるっていうのかなあ。
ながや:幼年期に最初に体験するメディアのひとつが絵本じゃないですか。イメージを中心に受け取る方が人間にとってより原初に近いのかなと思います。音楽(歌)と絵(視覚メディア)って言葉よりも長く人類が続けてきた芸術ですから、文字より、心も体も受信しやすいのかもしれません。だから、人間の中にある言語外の領域をいかに刺激するかが短歌のおもしろさなんじゃないかっていうことを今回の「描く短歌」以降、よく考えるようになりました。
【幻のあたたかさ】
ながや:しかし一方で、イメージとテキストを混じり合わせる表現って言葉の意味や解釈の幅を絞ることでもあるんじゃないかと思うんです。
前にみたテレビ番組で井上陽水さんがメールをするときに絵文字をたくさん使うっていう話をされていたのがおもしろかったんですが、録画データがないので、そのときのことについて書かれた本から引用しますね。
リリー・フランキーさんが、陽水さんからのメールには絵文字が使われていると、テレビで話していた。どうして絵文字を使うのかと尋ねたリリーさんに、陽水さんはいつもの笑みをこぼしながら、「言葉だけだと意味が伝わりすぎるでしょう」と答えていた。
齋藤孝『軽くて深い 井上陽水の言葉』(角川学芸出版)
「言葉だけだと意味が伝わりすぎるでしょう」これ、なるほどなと思ったんです。
柳本:へえ、おもしろいですね。
ながや:テキストだけだと情報が少ない分、必要以上に深読みしてしまったり誤解をまねいたりします。言葉だけだと味気ないし、ひとことじゃ伝えられないと思っていろいろデコったり、スタンプを使ってみたりして、意味を付け足そうとしているかのようにみえるけれど、実は方向性を提示して意図しない解釈の可能性を消していく行為でもあるんだと思います。
言葉の解釈に正解を持たせるとか、そういうことにはもちろんならないですが、本当は消えてしまう領域の方が圧倒的に大きいはずなんです。さっきのオノ・ヨーコさんの『天井の絵』に話をもどすと、あの作品の場合は解釈の可能性が広大なのが特徴でした。その分想像力を試されるおもしろさとつらさがあるわけです。
柳本:イメージは方向性の提示ってなるほどって思いました。言葉と絵があることによって意味が(悪い意味で)豊かにもなりうるし、意味が(いい意味で)貧困にもなりうるってことですよね。
その意味でおもしろかったのは、ご自身の短歌を絵にされる場合、どういうことが起こるだろうってことなのかなあとも思います。
たとえば東直子さんの短歌の私が感じるおもしろさのひとつは、言葉が言葉どおりの言葉であることをやめたところから出てくる意味にできないなにかだと思うんです。ふだんの意味とはちがった意味がふだんの言葉からでてきてしまう。そういう短歌としてのおもしろさがあると思うんです。
ながや:確かに東さんの短歌って言葉で言い表しにくいなと思うことが多いです。とても良いなと思っているのに。
柳本:でもそのなにかは意味に還元できない。それってでも絵もそうですよね。絵は言葉で説明できない、意味にならないから絵なわけで。東さんの描かれた絵をみるときに、東さんの短歌とおなじふうな・ちがったかたちを見いだせるのがおもしろいなと思います。それがなにかっていうのは難しいんですけどね。でもなにかやっぱりそこには共通性がある。今回描いていただいた東さんの短歌の「幻になってもまだあたたかい」って東さんの世界の一端のような気もしました。意味にならないなにかなんだけれどもあたたかさがある。ふたしかさのなかにたしかさが感じられる。短歌ってそういうものじゃないかって気がしたんです。「幻のあたたかさ」を感じられること。
ながや:12月号の特集の対談の中で安福さんと柳本さんは穂村弘さんの「海の生き物って考えてることがわかんないのが多い、蛸ほか」という歌について語られていますよね。世界の不確かさ、蛸みたいにふにゃふにゃしたものが短歌のなかにあって、それは世界から取りこぼされた断片だっていう。で、その「ふにゃふにゃ」って東さんの歌と絵に共通していますよね。「意味にできないなにか」ってふにゃふにゃしてると思うんです。だから特集に寄稿されている東さんの絵にクラゲがでてくるのは偶然ではなくて、やっぱりふにゃふにゃをとらえようとした結果こういう絵になったんじゃないでしょうか。そう考えると少女幻想共同体さんが特集で村木道彦さんのマシュマロの歌(するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら)を選んで絵にされたのもなんだか腑に落ちます。
柳本:ああほんとそうですね。今回絵を描いていただいた東さんや少女幻想共同体さんの絵が幻想的というか非境界的な輪郭が志向されているのは、そういう意味に決めうちできない短歌の性質をとらえているようでおもしろいです。もしかしたら鑑賞や感想という意味決定よりも、絵のような非意味の言語のほうが短歌を「そのまま」とらえることができるのかもしれませんね。
ながや:「そのまま」、そうですね、僕は言葉で伝える感想や評よりも1枚の絵の方が説得力を感じるんです。「食器と食パンとペン」がたくさんのフォロワーに喜ばれているのってやっぱり感覚的にうれしいからだと思うんですよ。もちろん言葉で説明できることもあるかもなとは思いますが、なぜうれしいかっていうと、絵を見た人、短歌を読んだ人それぞれの中にある、ふにゃふにゃした説明しようのない部分が表現されているから、というのがひとつあると思うんです。それはきっと「幻のあたたかさ」に包まれる瞬間でもあって、だから、「意味に決めうちできない」んだなって。
柳本:さっきながやさんが陽水さんの言葉を引用されて、「言葉だけだと伝わりすぎる」って話されていたけれど、絵っていうのは伝わらないのがいいのかもしれないですね。でもまあ大事な概念って伝えきれないというか、説明できないものが多いですよね。死とか性とか好きとか。でも絵というかイメージであっけなく体でわかってしまう場合がある。私にもやがて死がくるんですけど、やがてくる死ってそういうふうにふっとわかってしまうのかなあって。
ながや:今年度の『かばん』の表紙絵は杉ア恒夫さんの歌集『パン屋のパンセ』をモチーフに少女幻想共同体さんに描いていただいているのですが、少女幻想共同体さんが描く世界ってあの世みたいな雰囲気がするんです。
少女幻想共同体『12階かんむり売り場でございます』
/手紙魔まみトリビュート作品集『手紙魔まみ、わたしたちの引越し』
※試し読みページより引用
(http://eurekakerue.sakura.ne.jp/mami.tribute/galleriffic/01.html)
僕は『パン屋のパンセ』っていう歌集の大きな特徴は〈あの世とこの世の連続性〉だと思っていて、そういう歌集を少女幻想共同体さんが絵にされたら、さぞおもしろいものなるだろうという期待がありました。
死っていうものが、頭で理解できることはないんだけど、少女幻想共同体さんの絵をみていると、ああ、死ってこういうことかもな、こういう感じだったらいいなって、なんだか思ってしまうんです。
かばん2016年5月号 表紙
表紙絵:少女幻想共同体
【かわいい、うらぎり、しゅんかん、ねんじろ!】
ながや:今回の安福さんと柳本さんの対談の中で、安福さんの絵の中に出てくる、人と動物の話をされているじゃないですか、これも「世界のふたしかさ」とか「ふにゃふにゃ」につながる気がしています。
柳本:動物っていうのも言葉の外におかれた存在ですよね。ある意味、絵の世界の住人たちなわけですよね。その意味で、安福さんの世界になんで動物がおおいのかっていうのは考える価値があるように思います。どうしたって言葉になりようもないなにかを背負っているものが動物なのかもしれない。たぶん宮沢賢治の小説に出てくる動物たちもそうなんじゃないですかね。クラムボンだって説明不可能ななにかですよね。
ながや:宮沢賢治の作品に出てくる動物たちはいつも異界の側にいて、人間が認識できる世界だけが世界じゃないっていうことを教えてくれます。その世界ってやっぱり言葉の外の世界だと思います。
じつは東さんの絵も唐崎さんの絵も、少女幻想共同体さんのさっきのLINEスタンプにも動物がいっぱいでてくるんですよね。動物は言葉の通用しない言語外の存在っていうことと、あともう一つ大きいのは動物のかわいさだと思うんです。「かわいい」は、ふたしかで、ふにゃふにゃで、言葉にできません。
柳本:そうですね。トトロやベイマックスに感じる感情もふにゃふにゃというかふわふわが基調になっていると思うんですよ。猫バスもそうかな。ボディを過剰にふわふわさせたとき、そこに人間との差異がでるんじゃないでしょうか。だからトトロの眼がどこをみているかわからないようになっていたり、ベイマックスの眼が微動だにしないのもたぶん、言葉とか内面が問題になってないからなのかもしれませんね。言葉にならない、ふわっふわしたもの。ベイマックスはまあ動物じゃないんだけど、ベイマックスは動物的だと思いますね。まあトトロなんですけど、ベイマックスは。
ながや:差異っていうと、たしかに言葉とか内面って人間の問題ですからね。ベイマックスとヒロの関係は言葉のディスコミュニケーションのあとの接触によるコミュニケーション、ふわふわボディからのハグを印象的にみせていました。トトロたちと、サツキとメイも言語外の領域で交流しているじゃないですか。こどもはまだ言葉の領域に入りきっていないというか、動物側/異界に近い存在っていうことだと思うんですよ。だからこどもにはトトロがみえる。
「かわいい」って、もちろん言葉で言うことには言えるし、人間が「かわいい」と感じるデザインの体系みたいなものもあるかもしれないんですけど、本来「かわいい」はわからなさの中に、言葉の外にあるんじゃないかっていつも思います。だから、説明不可能で、そもそも人間には把握しようがない。動物のアンコントローラブルなところってドキドキさせられますよね。通じ合えることもあるけど、人間の言葉も内面も関係なく勝手に生きている感じ。
柳本:動物たちはたえず人間を裏切っていくと思うんですよ。それは犬や猫と暮らしていてもそう思うんですよ。わたしたちを理解しないことの大切さというか。
かばん2016年1月号表紙
表紙絵:東直子
裏切りといえば、今回特集で久真八志さんに書いていただいた原稿を読んで考えさせられたのが、絵と短歌ってかならずしも仲良くはないんです。どっちかがどっちかを裏切っていくことがある。
でもだからこそ、短歌と絵にはおもしろさがあるんだなとも思いました。その裏切りがあらわれたときに、はじめて絵や短歌にちかづけるものがあるような気がして。
もしかしたら、意味がうまれる瞬間って裏切りのしゅんかんなんじゃないかと思うんですよ。なにか意味がうまれるときってそういうときじゃないですか。じぶんがこうだなって思っていたのが、ほんの少し裏切られたとき。そうではあったんだけれども、そうでもなかったとき。
ながや:裏切りの瞬間って、さっき話した「言葉の意味や解釈の幅を絞る」っていうこととつながりますね。あるひとつの意味がうまれる瞬間って逆を言えばその他の意味でよまれる可能性が消える瞬間でもあります。でもどこかで踏み込まないと作品に出会ったことにおもしろさもうれしさも生まれない気がしますし、どう踏み込んだかっていうのが、描き手、読み手の個性になるはずです。
僕は短歌を絵にすることはできませんが、短歌を読むときは勇気がいるなっていつも思います。危険を背負うことになりますから。
柳本:ああ、いや、そうなんです。勇気がいるし、少し「狂気」の状態になる必要がありますよね。なにかを決める、意味を決めるってそういう状態なんじゃないですかね。理屈とか分別とかからふっと逸れて、「これしかない」って決めてしまうしゅんかん。それは読むだけじゃなくて、表現するときもなんらかのかたちでそうなのかもしれないですよね。ひとが意味に出会ったり別れたりする瞬間って、そういうことなんじゃないかって思います。自分でまったく説明できない、不可解な、不思議な、でも「それしかなかった」しゅんかん。
ながや:できあがったものを後から振り返ると選択肢がみえたりすることもありますが、狂気というか夢中というか、そういう状態では「これしかない」っていうところで決断しているもので、その決断の瞬間に、なにかが宿って作品になったり、評になったりしていくのかなって思います。
うん、そうですね、「しゅんかん」。今回もまた良いキーワードに出会えました。
今日はありがとうございました。おもしろかったです。また機会があったらよろしくお願いします。
(おしまい)